今読んでいる『蒼穹の昴』ですごく考えてしまった一場面がありました。
軍を統括する将軍、袁世凱(ユアンシイカイ)を、鉄砲で殺害しようとして失敗し牢獄に入れられた王逸(ワンイー)が、食事を運んでくる小梅(シャオメイ)という耳の聴こえない少女に字を教えます。
空は空を指し、地は地を指すことで彼女は意味を理解します。
でも「宇宙洪荒」宇宙は洪(ひろ)く荒(はて)しないという言葉をどうしても説明することができないワンイー。
泥濘(でいねい)(ぬかるみ)と黄砂と氷で出来上がった不毛の大地しか知らない貧しい少女は、宇宙を不毛の大地そのものと誤解するのです。
ワンイーはやり場のない悲しみでいっぱいになります。
インターネットなどもない時代です。
聞いたことも、もちろん見たこともない宇宙が、貧しく聴こえない少女にはどんなものなのか想像すらできないのも当たり前です。
聞いたことも、もちろん見たこともない宇宙が、貧しく聴こえない少女にはどんなものなのか想像すらできないのも当たり前です。
このシーンを読んだとき、「宇宙」と言う言葉は、シャオメイ、私、実際に宇宙を見たことのある宇宙飛行士で、それぞれが違うイメージを抱くのだろう。
同じ言葉でも、その人が持っている知識や経験などで、その言葉に対するイメージや重みが違うものになるんだなと思いました。
そして「言葉と心は一体」であり切り離せないものなんだろうか?ということが頭をよぎり、思考が迷宮に迷い込んで出口が見えません…。
本を読むとき、登場人物の育った環境や根底にあるもの、現在の環境、状況、思考などなどを汲み取って読むと、ただ文章を読んでいるだけの時と感じ方が全然違って、作品をより深く感じられるな、という風にも思いました。
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